Palmer Familyの紹介です。


"Founder" of Chiropractic

Dr. Daniel David Palmer (D.D.)


D.D.は1845年にカナダのPickeringという町に生まれ、20歳のときに仕事を探すために兄弟でアメリカに来ました。そして、アイオワ州のMuscatineとイリノイ州のNew Bostonで学校の先生をしていました。その他、New Bostonで自らの農園を持ち蜂蜜やラズベリーを含め色々な農作物を作っていました。そして、アイオワ州のWhat Cheerでスーパーを経営し、そこには鮮魚なども置いていました。 その後、D.D.はDr. Paul Casterから磁気療法を学び、ついには1886年にDavenportのダウンタウンに自らのクリニックをオープンし、後に彼は磁気療法士として広く知られるようになりました。

カイロプラクティックの発見
1895年9月18日D.D. によって始めてのアジャストメントが行われました。Harvey Lillardという人がいました。彼は、仕事中に背中が痛くなりその後17年間難聴を患いながら生きてきました。D.D.は彼の背骨に何か異変を感じ、その場所を押してあげると、なんとHarvey Lillardの耳が急に聞こえるようになったのです。その後D.D.はSamuel Weed牧師に頼み「カイロプラクティック」という名前をつけてもらったのです。元はギリシャ語の"Chiro"=hand + "Practos"=Done から来ており、カイロプラクティックは英語で「Done By Hand」日本語に直訳すると「手で行う」という意味です。

学校の設立
D.D.は1897年Palmer School of Chiropractic(PSC)を設立しカイロプラクティック教育を始めました。最初のクラスは15人のクラスで3分の1が医療従事者でした。そのほかにもD.D.はオクラホマ、オレゴン、カリフォルニアに学校を建てカイロプラクティック教育を広めようとしました。

D.D.は人生の中で5回も結婚していたそうです。
1906年には医師免許がないのに医療行為を行ったとして23日間刑務所に入れられました。当時カイロプラクティックはまだまだ新しく、アメリカ医師会を始めとし、医療機関から異端視されていました。
1913年にD.D.は腸チフスという感染性の病気でロサンゼルスでなくなりました。


"Developer" of Chiropractic

Dr. Bartlett Joshua Palmer (B.J.)


通称B.J.と呼ばれていますが、本来の名前はJoshua Bartlett Palmerです。理由は定かではありませんが、自らB.J.と名乗り、好んで使っていたようです。残っているサインは全てB.J.となっています。
B.J.は1882年9月14日、アイオワ州What CheerでD.D.PalmerとLouvenia Palmerの間に生まれました。(B.J.はよく、生年月日を1年早くし1881年と記入していたそうです。理由は、その後妻になるMabelがB.J.よりも少し年が上だったからだと言われています。) B.J.が生まれて2年が経つと母であるLouvenia Palmerが亡くなりました。B.J.は中学校までしか行っていなく、クラスでは、飼っていたねずみを逃がすくらい、いたずらっ子だったらしいです。

B.J.は父親からカイロプラクティックを学び、数年間クリニックで働きその後PSC (Palmer School of Chiropractic: 後のPalmer college of Chiropractic) へ戻り1902年に卒業し、1906年にPSCの学長になり、1961年3月27日にフロリダ州のSarasotaにある別荘で亡くなるまでパーマーの学長をやっていました。彼は、妻のMabelと息子のDavidとキャンパスの角にすんでいました。今でも、パーマー大学のキャンパスの中にB.J.マンションと言われる建物があります。そこにはB.J.が愛していた日本や中国から買ってきた多くのものが展示されています。また、B.J.はワニを飼っていたそうです。夏場は庭の池で、そして冬場は自宅の地下室に移していました。この面倒は息子のDavidの役目だったのですが、あまりにも大きくなったのでシカゴにあるリンカーンパーク動物園に寄付をしたそうです。B.J.のコレクションは今でもPalmer Collegeのいたるところに見られます。パーマーから少し離れたところにPutnum Museumという美術館があり、そこにコレクションの一部が寄贈されました。その中には各国の美術品、日本からは刀や鎧、エジプトのミイラなどが含まれます。そのほかにもB.J.はラジオとテレビの放送局も持っていました。当時B.J.のラジオ番組はアメリカ中に発信されていたそうです。

B.J.が考案したテクニックにターグルリコイルというものがありますが、別名ホールインワンテクニックと呼ばれています。この名前はB.J.のゴルフ好きに由来しています。ターグルリコイルというテクニックは主に首の1番上の骨だけをアジャストメントします。一回のアジャストメントだけで終わる=ホールインワンというわけです。B.J.はゴルフがとても好きだったようですが、スコアはあまりよくなかったようです。その代わりにゴルフウェアだけは当時の一流のものを揃えていたようです。B.J.のゴルフウェア姿の写真が今でも多数残っています。



"Educator" of Chiropracitc

Dr. David D. Palmer (Dave)

本名はDaniel David Palmer II(二世)です。
DaveはB.J.とMabelの間のたった一人の子で、1906年1月12日に生まれました。
ペンシルバニア大学にあるWharton School of Financeで勉強し、その後PSCに通い、卒業しました。 B.J.が亡くなったあと1961年にPSCの学長になりました。そしてPSCをPCC(Palmer College of Chiropractic)と名称変更し、教育レベルをより高くするためにカリキュラムを改良し教職員を増やしました。B.J.がなくなるまではPSCはほとんどB.J.の独裁体制で、学校も家族経営でした。DavidはD.D.とB.J.と比べると少し霞んで見えていそうですが、パーマー大学の発展、維持に大きく貢献した人物であると言えます。3階建ての大きな図書館(David D. Palmer Health Scinces Library)と、体育館を建てました。特に、図書館はカイロプラクティック関連の古書の蔵書では世界一を誇ります。


"First Lady" of chiropractic


Dr. Mabel Heath Palmer

1881年にイリノイ州のMilanで生まれ、1904年にB.J.と結婚し、1905年にPSCを卒業し、世界で始めての女性のカイロプラクターとなりました。その後シカゴにあるラッシュ・メディカルスクールに通い解剖学をより詳しく学び、PSCに戻ってきて何年も教鞭をとっていました。Palmer Schoolでの愛称は"Sweetheart of PCC"でした。Dr. Mabel HeathはB.J.と共にPSCでカイロプラクターを育て1949年にアリゾナのTucsonで亡くなりました。
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